この1機 <十四試局地戦闘機 雷電>



雷電の苦しい戦い

昭和20年4月7日、B29に随伴して、P51が来襲した。
後に「最強のレシプロ戦闘機」と称されるP51の直掩は、
事実上、雷電を行動不能とさせた。
昼間、B29だけと思って迎撃すれば、P51に叩かれる。
また、P51の直掩が有ると思い上がらなかったり退避したり
した場合にB29単独来襲であれば、ムザムザと貴重な戦力を
削いでしまうことになる。
夜間は言うに及ばないだろう。
雷電の戦いは、苦しさを増していく。

沖縄陥落が決定的となるに及んで、本土防空戦も急速に終焉を
迎えることになる。
航空部隊の作戦が温存策へ移行され、航空部隊自体の
来るべき、米軍の本土上陸に備えての苦肉の策である。
これが雷電の戦いの事実上の終焉である。
以後も散発的な迎撃は行われたが、組織的な運用は望むべくも無く、
終戦間際まで戦いは続けられたが、力は既に尽きていたと言えよう。

苦しい戦いではあったが、雷電は良く戦った。
実用かつ実戦配備された、迎撃専門の単発単座機は雷電と日本陸軍の
鍾馗だけであり、日本海軍に限れば雷電は最高の上昇力を持っていた。
期待され、雷電は短い期間に多くの派生型を生み出す。
モノにはならなかったが、ターボ過給器装備型試作機も2種類あった。
結局、日本の浅い国力の前では虚しい努力だった。
とは言え、雷電に関係した多くの人々の努力は決して無駄では
なかったと思う。
短く、苦しく、激しい雷電の戦いが、それを物語っていると思う。


平和な時代の戦闘機たち。
良質の補器を使用した場合、雷電は日本での測定値を遙かに上回る
結果を出したと言う。 (671km/hの速度は凄い。)

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