この1機 <SBDドーントレス>


SBD−4までの機体と、SBD−5以降の機体で外目でわかる特徴として、キャノピー前方の
照準器がある。


左が4型までの望遠鏡式光学照準器を装備していた。 この時代のカウンターパート九九式艦爆
もこの形式の照準器を装備していた。 高空から海面まで急降下すると、高空で冷やされた照準
器に急激な温度と気圧変化で結露が発生しレンズが曇ったという。 冬、眼鏡をかけて外を歩い
た後、暖かい家に入ると雲って見えなくなるあの現象である。
五型以降は、右の光像反射式照準器Mk[に変更して問題を解決した。

7.62mm後方旋回銃にも2型までは単装。 3型以降は生産途中から連装という違いがある。
尚、陸軍用で型式違いのA−24は3型単装に準じて生産が始まり、SBDの生産が進んでいき、
5型になる時に連装化したという。


イメージとしては右側の連装式のイメージが強い印象があります。
単装式で600発、連装式では1200発の弾丸を携行する。
ただ、銃器周辺の大型化などによって、後方銃手が脱出しにくい場合があったという。


SB2Cと交代

珍しいSB2CとSBDの編隊飛行。 

1200馬力級のSBDに対して、1900馬力級のSB2C。
前方固定銃は12.7mmから20mmに大口径化している。
主翼折り畳み機構を持ち、爆弾は胴体内に収納して空力的に洗練させた。
6000機弱のSBDシリーズに対し、SB2Cシリーズは7000機強が生産されている。
現場での扱いにくさや、操縦性の悪さと言った評判を除けば、たしかに戦力は上がったと言える。

1943年頃にはSB2Cが実戦配備され出し、年末には本格的に配備が進んでいく。
初期の1700馬力エンジンは換装され、甲板上は1900馬力のR2600−20の轟音で
埋め尽くされていく。 母艦の上はすぐにSB2C一色となった。
しかしSBDは引退する訳ではなく、陸上基地から運用される機体となった。
ラバウルからフィリピンまでアメリカ軍の北上と共に前進し、常に地上部隊の近接支援に投入
された。 攻撃予定地域をグリッド分けし、各機が割り当てられた地域に投弾する戦法は、後
の大型機による都市に対する絨毯爆撃と同様の思想だった。
また戦力的に必要であれば、当然のように艦船攻撃にも振り向けることが出来た。


トラック諸島夏島(現トノアス島)上空を飛ぶSBD。


1944年2月17日、トラック空襲のその日、トラック上空を飛ぶSBDの編隊。
胴体下に爆弾が無い事から投弾後のように見える。 それでもこれだけの高度を取り、少なく
とも6機が編隊を組める程度に整然としている事から、SBDにとっても難易度は高くない攻
撃ミッションだったのではなかろうかと想像する。
続く18日の2日間の空襲で、日本海軍は新造を含む300機近い在空・在地機を失い、艦艇
10隻を失なった。 これにより、以後ラバウルへの航空機の補充は不可能となった。
そして今や戦艦より貴重な、20万総トン以上の大小輸送船31隻が沈む大打撃を受けた。
日本の保有する全輸送力の5%がたった2日で失われ、南方輸送ルートの維持は困難になった。


その後も整然と進むSBDの量産。 これは6型との事だが、拡大しても向こうが見えない。
何機あるのかが数えられない程ならんでいる。 今から考えても想像の上を行く光景である。
手前の主翼で作業しているのは女性工員。 女性の動員に関しても日本とは雲泥の差である。
この頃になると、新造された機体がそのまま訓練飛行に回されるほどの活況を呈しており、
わかってはいても、ものすごい生産力だと感心する。


テネシー州メンフィスの海軍航空技術訓練センターでSBDに取り組む訓練生。
さすがに新造機ではないであろうが、きっちり手入れをすれば飛べる機体のように見える。
一部には笑顔の人物もおり、本土の安全な場所で余裕をもって訓練している様子が伺える。
この笑顔がSBDを終戦まで活躍させえた真の理由ではなかろうかと思う。




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