日本爆撃 末期



続く8月9日には長崎に第2撃がかけられた。
同じ特殊爆撃隊に属するチャールズ・スウィニーィ少佐の指揮する
B29「ボックス・カー」から投下された原子爆弾は多くの人の
生命を瞬時に奪い、死と廃墟とキノコ雲を残して最初にして最後
の仕事を果たし、消えた。
TNT火薬2万トン、B29が約2000機、艦載機なら約2万機。
それに匹敵する爆発が一瞬に生じたのである。

たった2発で、わずか2発で、10万人以上が即死し、今なお苦しむ
人がいる。
戦略爆撃が新たな世代に突入したのである。

1941年12月8日まで、飛行機の威力は低く見積もられていた。
戦略爆撃の理論は模索状態で、各国がその確立に狂奔していた。
そして、戦略爆撃こそが戦争の行方を決定的にする要素であることを
証明するかの様に、わずか3年後には「悪魔のような」レベルに達して
いく。 日本が日露戦争以来、何十年もかけてつちかった海戦や夜戦の
技術などは戦略的に全く用をなさず、この「新参者」に完敗した。
そしてこの「新参者」は4年も経たずに次の世代に突入して行く。
多くの犠牲者を生み出し、第2次大戦のシンボルともなった戦略爆撃
は、戦争の概念を根本的に覆したのである。
兵器や戦略、戦術の発達はそれが有効なものであればあるほど、その
発達速度は急速に増加する。
その面から見れば、戦略爆撃こそが最も有効な「戦争遂行手段」なの
だろうか?
だとすれば、「戦略爆撃」を再現しないようにするにはどうすれば良
いのか、誰にでもわかるハズであろう。



終戦後、東京。
上方、中央部分から左側の森のような場所が皇居。
他は、焼け野原。


特集見出しに戻る