不可解な事実


一般的に大西中将が特攻の創始者とされている。
本当だろうか?

アンチテーゼ的な事実が存在する。
1944年10月25日、敷島隊が突入する。
だが、それより以前に、特攻専用兵器が開発されていたのである。
例えば「E兵器」と呼ばれた、後の「回天」が進水したのは1944
年7月10日である。
7月25日には、先行量産型の「回天」が有人テストに成功。
8月16日には海軍省の名で空技廠に対して「○大兵器」、後の
「桜花」の試作命令が出されており、あまつさえ、搭乗志願者の
募集すら開始している。
9月13日には海軍省内に、「海軍特攻部」が発足。
日を置かずに「桜花」による特攻隊の編成を準備。
10月1日には721海軍航空隊、通称「神雷部隊」が発足。
同月4日には、陸軍でも体当たり攻撃隊の編成を準備。
同準備は7月初頭の「爆撃機の特攻機化」が元になっている。

これら以外にも、様々な事実が存在する。
特に「特攻部の発足」とは、一体どう言うことだろうか?
この頃、大西中将は航空本部総務部長などを歴任しており
これら「中央の動き」を、完全に知り得ることは出来なかった。
海軍中央では「大西の決断」よりも遙か前に、特攻の準備を組織
立って進めていたのである。

皆さんはこれらの事実を前にしても尚、「特攻の創始者は大西中将」
と言えるでしょうか?
私はことさら、大西瀧治郎中将を弁護するつもりなど無い。
ただ、「事実」を「感じて」もらいたい。

私なりに理解すれば、大西中将はある意味、スケープゴートだったの
かも知れない。 初めて特攻の引き金を引く役割を負わされたのは
確かに大西中将だった。
問題は、その引き金を準備して、大西中将に指を掛けさせた者の存在
は、あまり知られていないことにある。
その者(達)によって、引き金を引かされ、多くの前途有望な若者の
命を死地に追いやり、自らも終戦の翌日自刃した大西中将。
悪い印象ばかり目立つこの人にも、ある程度、再認識をする必要が
あるのでは無いだろうか?



まさに突入寸前の特攻機。                    大爆発を誘発するセントロー。
その命の最後の瞬間に、若者は何を思い、          神風特別攻撃隊敷島隊長機
逝ったのだろうか?                         の戦果。


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