スキップ・ボミング


その他の場合
日本は航空機の威力を真珠湾で示し、敵にその強力な威力を教えただけで、
自らは大艦巨砲主義に固執したと言われる。 全部が全部正しいとは言え
ないが、まあ方向性としては正解だろう。
ヘンダーソン飛行場を砲撃し、対地艦砲射撃の威力を見せつけ、それ以降は
見せつけ返され続けた。
どうも、敵に有効な攻撃方法を教えてやったあげくに、同じ方法で10倍に
して返されているような気がしないではないが、スキップボミングだけは
教示側と教受側が入れ代わった気がする。
ダンピール以降、連合軍はスキップボミングを用いなかった。
対する日本軍は、それ以降急速にこれを教育しようとした。
結局は終戦までに組織だったスキップボミングを敢行する機会は無かった訳
だが、これが変則的になり、機体共々敵艦船に体当たりする戦法に主眼が
おかれるようになる。
レイテ戦線で試験的にスキップボミングが用いられ、少数の連合軍艦船に
被害を与えていた頃、5機の零戦が連合軍艦隊を恐慌に陥れた。
生還率ゼロの必死攻撃、神風特別攻撃隊の誕生である。
未帰還率90%以上と言われた決死攻撃、スキップボミングは遂に間に
合わなかったのである。

スキップ・ボミングの消滅
低高度を飛ぶリスク。 高性能レーダーや対艦ミサイルの登場。
喫水線より上にあたる場合が多い為に、大型艦の撃沈は難しい。
飛行機全体の大型化、高速化、それらの要因が考えられるが、それでも
1950年代は、まだスキップボミングが居残っていた。
航空自衛隊が友邦国アメリカから貸与された、初のジェット戦闘機F86Fの
対艦戦闘の基本もスキップボミングである。
当時はまだ小型で精度の高い対艦ミサイルは無く、とてもF86クラスに
搭載できる代物では無かったのである。
しかし1960年代、レーザー誘導技術が確立された頃までには、やはり
スキップボミングは消滅していった。
超低高度で目標の真上を飛び越えるような攻撃方法は、やはり危険が大きい
と判断されていたのだ。



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