秋 水
昭和20年5月、秋水の元となったMe163の母国ドイツが連合軍に対して
無条件降伏し軍門に下った。 B29の本土空襲は熾烈を極め、6月に入る
頃までには、大都市のほとんどが焼け落ち、中小都市も爆撃を受け始める。
その6月にようやくエンジンの全力運転が完了。
7月に機体に取り付けての運転試験実施。
ようやく進空への条件が揃った。
この時点で秋水の配備は既に手遅れなのだが・・・。
さかのぼる昭和20年2月5日、先年より訓練を繰り返してきた搭乗員達を
基幹として正式に第312航空隊が発足した。
他機種や、先行配備された軽・重両滑空機による滑空訓練を繰り返してき
た312空だったが、7月になってようやく実機の目処が付いた。
7月7日、広くは無い追浜基地で秋水の実機が用意された。
少しでも離陸を容易にする為にとの部隊司令の配慮で、燃料は最大量の
3分の1だけが搭載された。
午後に入り、飛び立つのをイヤがるようにエンジンは不調な状態が続いた
が、夕刻には何とか復調した。
先年10月から配属されていた犬塚豊彦大尉がコクピットに搭乗し、技師と
のやり取りの後に風防が閉じられ発進準備が整う。
過酸化水素水の漏出による火災防止の為、機体周囲への散水作業が
行われた後エンジン始動。 現在で言う所のダイアモンドショック現象を
見せながら、滑走路を滑走し始める。
滑走320m、上昇姿勢20度で予定通り離陸。 主車輪投棄、尾輪収納、
上昇姿勢45度での上昇に移る。 全て予定通り。
(私見ながら、今まで搭乗していたレシプロ機とは全く異質の飛行状態で
ある事は明らかで、現在のようにシミュレーターも無く、訓練機も無い
環境で初めてロケット機を離陸させるにあたって、これだけの操作が
予定通り出来たとは、まったくもって当時の搭乗員の技量には感嘆の
思いを禁じえない。)
地上から拍手が沸き起こった時、高度350mの高度でエンジンが停止した。
500mまで余力で上昇し水平飛行に移り海上で甲液を投棄。 着陸の為に
右旋回に移ったが失速気味に高度が下がり地上施設に接触。 高度7m
から墜落した。
主車輪を投棄し加速する秋水。
秋水の関係資料だけを見ていたのではなかなか見つからない記述だが、
Me163のテスト飛行の時、同じように着陸前旋回の時にストールして
墜落する現象が起きている。
無尾翼機の場合、エルロンとエレベーターは同一翼面を使用して機体を
コントロールしている。 深バンク時に機首上げコントロールをすると
主翼上面の気流がかき乱され、一気にストールする訳である。
従来のタイプの機体構成ではありえない現象で、おそらくそういった情報は
ドイツから提供されていなかったであろう。
地上から望見された飛行経路を見る限り、進入前にかなり急激な右旋回に
入っている。 しかも沈降速度が速いとあっては、機首上げ操作をした
可能性も大きい。
従来の秋水関係の書籍、資料にはこの点が言及されていない。
従来は燃料を3分の1にした事と、軍も関わったハズの燃料タンクの設計
が墜落原因とされているが、それはエンジン停止の原因であり、墜落の
原因ではない。
元々、上空何千mからエンジン停止状態で戻ってくる事を前提とした航空
機である以上、エンジン停止が墜落の直接原因とは思えない。
もしエンジン停止原因だけが追究され続け、飛行が再開されたとすれば
同様の墜落事故は再発していたかも知れない。
燃料を3分の1にした事に関しては、甲液の燃料タンクの燃料吸い込み口
がタンク前方下部にあった為、少量の燃料で急加速、急角度での上昇の
結果、吸い込み口に燃料が回らなくなる原因となった。
また搭乗員死亡の原因の1つとして、万一の場合は海上に不時着せよと
言う司令の指示に反して着陸を強行した事も上げられる。
海上に不時着していたら必ず助かっていたとは言えないが、試験時に司令
の指示に従わなかった事実は受け止めねばならない。
大破した秋水海軍用1号機。 コクピット部分と主翼は
調査のために取り外された後。
しかし私は、飛行状況から見る限りにおいて、真の「墜落原因」は無尾翼機
特有のストール特性にあると思う。
だとすれば残念なことだが、この事故はどんな名パイロットも不可避の事故
であったろう。 当時の搭乗員(おそらく設計者も)には、そんな情報は知ら
されていないのであるから・・・。
この事故の後も、エンジン燃焼試験での爆発死亡事故や、滑空機による
訓練中の墜落事故などが続いた。 事故で失われた海軍用1号機に続き、
陸軍も試験飛行の準備に入るなどの動きが続いたが、ついに8月15日を
迎えて秋水計画は終焉を迎えることになる。
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