タイダルウェーブ作戦



帰還時には戦闘機による追撃を受け被弾した機体も多く、不時着も相次いだ。
爆撃時の混乱で帰還時には編隊などはほとんど組めず、単機ずつの飛行と
なり、戦闘機による損害も拡大した。

出撃11時間後、単機づつバラバラになってベンガジに帰還したB−24は
合計99機、しかもその大半が傷付いていた。
プロエスティの生産能力の90%を破壊する目標だったこの作戦は、結局
40%程を破壊したにとどまり、半年もたたないうちに生産能力は復旧した。
1726人の出撃搭乗員のうち、532名の犠牲と、多数のB−24が損失。
この日だけで全戦力の3分の2を失った。


第15航空軍のB−24D型
このD型がプロエスティを爆撃するタイダルウェーブ作戦の主役を務めた。


1944年4月に再開されたプロエスティ爆撃は、作戦基地をイタリア国内に
置く事ができた為、爆弾搭載量が増加、距離も近くなり比較的容易になった。
出撃機数も200〜300機と大幅に増加し、タイダルウェーブ作戦のような
きわどい爆撃行はなりをひそめた。

しかし、ドイツの防空司令官は戦闘機や対空砲火の増強だけにとどまらず、
消火体制や復旧体制の向上をはかり、生産施設や送油施設の分散化に
よる被害の極限を実施するまで徹底しており、防空体制の強化だけでなく、
施設の打たれ強さにまで配慮していた。

1944年8月、ソ連軍がプロエスティを占領するまでに、合計23回もの
プロエスティ爆撃が実施され甚大な被害を与えたが、それでもわずかながら
プロエスティの石油生産能力は確保されていたと言う。





特集見出しに戻る