ポート・ダーウィン空襲



一撃離脱を多用してくるP−40に比べ、スピットは格闘戦を挑んで
くる機会が多かったという。 重戦Me109と戦っていたスピット
ならば確かにおかしくはない。 それでも、40機をこえる迎撃に対し
ほぼ半数22機の隼に守られた百式が進撃。
上空8500mから逆落としで攻撃をかけてきたスピットではあったが
日本軍パイロットが訝しむ程に「隼」相手に格闘戦で対抗してきた。
それでも直上方からスピット2機の一撃離脱攻撃で狙われた百式の
1機が、左エンジンから黒煙を噴き高度を下げる。
制空の「隼」の倍を擁するスピットに、尾部銃座を破壊された1機も
火災が広がり撃墜された。
スピットの攻撃開始から20分を超え、ようやくポート・ダーウィン
上空に達した百式は爆撃を敢行。
軽くなった機体で順次離脱にかかる。


コールドウェル中佐率いる、ヨーロッパ上空で戦果を上げたスピットファイアV型
翼内銃が20mm機関砲のC翼に換装したタイプである。
この頃、オーストラリア配備のスピットは、エンジン不調の機体も少なく
無かったという。 その辺りも日本軍に有利に働いたかもしれない。


百式2機と制空の「隼」1機が撃墜されたが、残余の全機は帰還した。
百式のほとんどが手ひどく被弾しており、ほとんどが現地で廃棄された。
それは以後の作戦活動を断念しなければならない程のダメージだった。
重火力で敵機をよせ付けず、重防御で敵の攻撃に耐え、護衛機無しで
攻撃に出られる、夢の爆撃機の限界だったと言えよう。
しかも、戦闘機の護衛が付いていての被害であるから、単独で突入して
いたらどうなった事か。 もっとも、机上の官僚軍人には夢を見ている
暇もあるだうが、前線で実際に空を飛ぶ者にはそんな暇は無い。
だからこそ、護衛機を付けたのであろうし、そのおかげで被墜機が少な
かったと言うのが事実であろう。
それでも、前任の九七式ならほとんどが墜ちていたと言われる程の打撃
を受けながらも、とにかく往復6時間以上を飛び切り帰還した。
百式はギリギリの所で耐え切ったと言うところか。

以後もポート・ダーウィンへの攻撃は海軍が主力となって続行されたが
戦況の推移から、もはや先細り以外の何物でもなかった。





特集見出しに戻る