戦時下の差別解消運動
戦時下の運動は、「挙国一致」を合言葉とする戦争協力の代償としての差別解消運動が展開されましたが、組織的には多様な分岐が見られました。水平社内での部落厚生皇民運動と大和報国運動の確執、融和運動の再編としての同和奉公会結成などがそれです。しかし、こうした動きより早く、奈良では西光らが中心となって『街頭新聞』『新生運動』を発刊し、天皇制の下での「平等」を追求していました。
《街頭新聞・新生運動》
西光は出獄後、国家社会主義に接近して天皇制の下での「平等」を追求しました。1934(昭和9)年には『街頭新聞』を阪本・米田らと創刊、1938(昭和13)年には亀本源十郎・木村京太郎・中村甚哉を編集にすえて『新生運動』を始め、水平社からは「神がかり」と非難されました。
《水平社運動の分岐》
日中全面戦争の展開は、水平社運動の分岐をもたらしました。反戦・反ファッショ運動を継続することが困難となって、「挙国一致」体制下での差別解消をめざしたのです。旧水平社解消派は部落厚生皇民運動へ、主流派は大和報国運動へと向かいましたが、いずれも短期で解散し、戦争の渦に呑み込まれてしまい
ました。
《大和報国運動》
戦時下の水平社は、最後の大会となる第16回大会で「部落問題完全解決體制の樹立」をめざし、融和運動との統合をはかりました。水平社組織の解体も企てられましたが、反対が強く、「解消の決意を有す」という決議にとどまっています。1941(昭和16)年8月に大和報国会と改称、1942(昭和17)年4月に解散しました。
《同和奉公会》
1941(昭和16)年6月、中央融和事業協会が同和奉公会と改称され、府県融和団体も同和奉公会の府県本部に改められました。こうして同和奉公会−同府県本部−同市町村支会−部落常会・地区更生実行組合という大政翼賛会に対応した組織が成立しました。同年と翌年の2回、中央協議会を開催し、部落の産業基本調査を実施しましたが、侵略戦争の拡大により進展せず、敗戦後の1946(昭和21)年に解散しました。