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母は帝国女子医専(現東邦大学)出身の小児科医であった。母は絵の道に進むか、医者になるか考えた様だが、祖父から「絵じゃ食べていけないよ。」と助言され医学の道を選んだと母から聞いた。愛知県の海南病院に務めていた父が、三重県の四日市で開業し、私は岡田屋(ジャスコの発祥地)の裏の幼稚園に通うことになった。(余談ではあるが、社長は幼稚園、高校の同期生である。)すぐ近くに母の勤める市民病院があり、その日お手伝いさんのお迎えがなかった為か、暗くて木のきしむ音がする病院の長い廊下を進み母の仕事場へ行き初めて小っちゃい子供を診る医者であることを知った。それから40年程の歳月が流れ、いなくなった。3ケ月程前から非常に調子が悪くなった。梗塞がおきかけているのであろうと判断し入院を勧めた。然し、強くは勧められなかった。自宅を母は選んだ。
『追憶 あの日あの時』と題し父は遺稿集を100部発行した。私はいまだにその本を読んでいない。読めないのだ。その上、「涙、涙だよ、お母さんが読むと。」と一寸大きくなって再び読んだ娘が言った。その言葉は当たっていると思う。最後の頁に私のこの様な文が入っている。
平成8年9月15日、私は四日市へ出かけるつもりであったが、都合で行けなくなり、重い気持ちで受話器をとり「今日行くのやめとくわ。」と言ったら、残念そうだった。そして「酸素が欲しい。」と言った。そうは言うものの普段とさほど変わらぬ声であった。父も姉も山へ栗拾いに出かけて居ないとの事。母にあまりしゃべらせない様に早く電話を切ってあげないとと焦るし「電話かけてあげるわ。・・・あ〜携帯電話の番号聞いてないわ。」とあわててると「もうすぐ帰ってくると思うから。」とやたら落ちついた母の声に安心させられ電話を切った。然し切った瞬間私は覚悟が出来ていた。酸素が欲しいと言って私に覚悟させてくれた母。最後の最後まで凄い母であった。そして今も生きているが如く私の傍らにいる母。
そんな母がうらやましくてならない。(母の日に記す)