大和郡山市医師会広報指定席
平成19年秋
山本裕幸先生



     大和盆地は黄金の稲穂が秋風に揺れ、今、収穫の只中である。   今年ほど、田園風景の季節的移ろいを感慨深く眺め続けた年はなかった。  今年(平成19年)の1月から、母が市郊外のケアハウスで生活するようになった。  昨年2月に右足首を3箇所骨折し、約8ケ月間の入院治療を経て、今まで住んでいたマンションにひとまず戻った。退院後3ケ月間、24時間私的な家政婦に支えられての生活を続けたが、経済的にも本人自立のためにも無理があると考え、本人の意向を最大限尊重してケアハウス入居を決めた。85歳の母が片足を引きずり、手押し車を押しながらも社会復帰への希望の持てる最善の施設に入居することができたことを感謝している。      

15年ほど前、私の耳鼻咽喉科医院開業後3年目に私は兄弟の意向をあまり勘酌せず、東京在住の母(父は昭和43年他界)を奈良県へ呼び寄せた。  当時から兄は東大理学部分子生物学教授(現理学部長)であるが横浜市在住、弟は東大文学部美術科卒業後名古屋本社の会社に務めていて知多半島の新居には母の部屋まで用意されていて、次男である私が強引に母を呼び寄せる絶対的な理由はなかった。・・尤も、「ちび」と呼んで、我が子と同じ感覚で接してきた愛弟は5年前胆管細胞癌で親父と同じ50歳であっけなくあの世に旅立ってしまったが・・。    

奈良へ呼ぶにあたって、再三母の意向を確かめたが、私の傍で生活したいということで、近鉄郡山駅前のマンションを賃借した。70歳を越えていたが、東京での引っ越し準備は全部自分でし、転居してきた。  私が中・高時代をすごした東京の家は多くの思い出を積み残したまま、廃屋であるが、今も昔の姿を保っている。    

足が不自由な母は、独りでは外出できないので、日曜日には昼から車でケアハウスを訪れ、夕食時まで奈良県内、近郊をドライブし、風景を見たり、軽食を摂ったりするのが週一度の行事になった。田植えに始まり稲穂の成長課程を自然と観察する習慣が身に着いた。  滅多に夫婦で旅行にも出かけない出不精の私が、母親には世話焼くことが家内には不満の種だが、さりとて母を放置することはできない。  

さて、奈良盆地の田園風景の移ろいを毎週見続けて、主食の米が身近で取れることの幸せを感じて来たが、最近、米の流通はそう簡単ではないと知った。  減反対策で、耕作されていない田園があることは知っていたが、逆にその分海外産ブランド米(?)なるものが10万トンを越えアメリカ、中国から輸入され、日本の有名ブランド米は高価格で海外の高級料亭などに流れているらしい。  江戸時代から日本では米は貨幣と同じ扱いであった。  親を大切にする気概と、徴兵例ならぬ徴農制を課してでも主食の米は「国産米」を守ることが我ら世代の責務と感じている。


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