この1機 <十四試局地戦闘機 雷電>


雷電の実戦配備まで

昭和17年3月20日、試作1号機初飛行。
制式採用の時期は判然としないが、どうやら昭和18年10月頃
らしい。 初期は7.7mm×2、20mm×2の武装だったが攻防激しい
ラバウル方面より「威力不足」との戦訓が入り、20mm×4に変更
されて、重爆殺しに威力不足の7.7mmは取り外された。
試作から量産迄1年半以上かかっているのは、まず、エンジンの延長軸
に起因する異常振動。 水・メタノール噴射装置(馬力アップ装置)の
不調。 さらに、着陸時のショックに起因する試作2号機の墜落。
他にも、エンジンの焼き付きや電気系の不完全作動、視界の不良など、
あげていけばキリが無い程の問題を抱えていた。

最多量産機、J2M3「雷電」21型が最初に実戦配置されたのは
昭和18年10月1日。 その部隊は、海軍381空で、定数は24機。
初の乙戦(迎撃機)部隊の誕生である。
さらに301、302、332、352、256、横須賀、谷田部
元山、台南、神ノ池、中支、1001、各海軍航空隊にいきわたる。
一部では、対戦闘機戦闘にも用いられたが、苦戦は免れなかった。
20mm×4の火力は大きかったものの、元が対重爆用の機体なの
であるから、それは当然である。


台南にフェリー中の「雷電」。 操縦者は台南空所属の青木中尉。
同行の「月光」より撮影された一葉。 同中尉の専用機と化した
本機が昭和19年10月に偵察に来たP38と交戦したのが記録上の
「雷電」の初空戦である。 雷電は格闘戦に於いて、P38と同等
程度の性能だったようだ。


同中尉の352空での搭乗機。
胴体横の2条の稲妻が印象的な機体である。


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