この1機 <十試艦上攻撃機>
 <九七式艦上攻撃機>


九七式3号艦上攻撃機 開発
1935年、十試艦攻として、中島・三菱、両社に対して競合試作
の打診をした。 中島は20歳前後の若手技師達を起用し、当時最も
近代的な設計を施した艦攻を開発した。
全金属製の機体、片持式低翼単葉の主翼、引込脚の採用、主翼折り
畳み機構、そしてファウラーフラップの導入。
翌年4月に木型審査を終え、試作第1号機は大晦日に完成した。
当時で1機7万円。 今で言うなら数千万円という機体を、数百機
契約できるのだからその意味は大きい。

ほとんど開発時期的に差異の無い、複葉羽布張り固定脚の九六艦攻
から一気に進化した機体は、制式採用と同時に日華事変に登場。
当時としては一流の性能をもって水平爆撃で活躍した。
しかし中島の技師達は、770馬力しか出ない大直径低馬力の光
エンジンが不満だった。
設計時、同じ中島で開発されていた小直径大馬力の栄エンジンの
搭載を計画していたのだが、栄の開発が遅れたためやむなく光を
搭載して九七式1号艦攻を完成させたのだ。
もともと栄用の機体ラインで設計されていた為に、栄の完成と同時
に換装作業に入った。
エンジン馬力は大幅にアップした上に直径は小さくなったものだ
から、これで性能は一気に向上した。
1号はもちろん、低性能の1号と互角であった2号も一気に押し
やられ、九七艦攻は3号が主役に躍り出た。

余談だが、どう見ても2号は旧式の感がいなめない。
それでも、同年次に競合試作のハズの1号と2号を両方採用した事
は、2号の性能が優れていたというよりも、やはり陸軍ご用達の
中島に対して、海軍ご用達の三菱の面子を守った意味が大きいので
はないか、つまり政治的駆け引きでの打算的採用ではなかろうか?
この時期、日本の一般国民はかなり困窮していたハズである。
そんな時期に、無駄な金を使ったものである。


九九艦爆と見分けが付きにくかった九七式2号艦攻。
一応実戦配備もされたが、すぐに戦場の片隅に追いやられた。


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