初期の戦略爆撃


その後も続々と侵入するコンドル部隊の爆撃機に
よる銃撃と爆撃に市民と敗残兵はパニックに陥り
必死の逃走を試みる。
しかし約45tに及ぶ爆弾と焼夷弾、執拗な銃撃
の前に1600人以上の犠牲者がゲルニカと呼ばれ
た街の廃墟に残された。
住民の犠牲を前提とした初の都市爆撃の結果である。


世界が第二次世界大戦に突入してからは、多くの
場合、軍需物資生産施設や軍事施設が戦略爆撃の
目標となっている。
有名な爆撃では、1943年8月1日の「プロエス
ティ油田地帯」への爆撃が揚げられる。
ドイツ軍の「燃料生産」を締め上げようとする戦略
爆撃である。 ブカレスト北方に位置するこの大油
田はドイツ軍の生命線とも言えるものであった。
当日、リビアの砂漠地帯ベンガジから飛び立った連
合国軍の第九空軍と第八空軍の遠征部隊のB−24
爆撃機は、一路プロエスティを目指して飛行を続け
る。 しかし良く訓練され、練りに練られた計画で
はあったが、途中の先導機の事故や爆撃コースへの
侵入の失敗等で、結局は防空部隊に阻まれる結果と
なった。

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