日本爆撃 初期


1942年4月18日、米空母ホーネットを発艦した
ジェームス・ドーリトル中佐率いる16機のB−25
双発爆撃機が有史以来初めて、帝都に一撃を加えた。
胴体内の各所に燃料タンクを増設し、機密装置のノル
デン照準機を1つ50セントの針金照準器に換装した
B−25は、超低空で帝都をかすめ飛びつつ写真偵察と
爆弾投下を敢行し日本海へ飛び抜けた。
搭乗員の危険と不時着による機体損失に見合うだけの
爆撃効果はあがらなかったが、政治的効果は抜群だった。
日本軍部に与えた衝撃は巨大な波紋を広げ、その焦り
から、ミッドウェー海戦の敗北誘因の1つとなった。
極めて小規模ながら、完全に成功した戦略爆撃であった。
反面、日本には「爆撃と言ってもこの程度か。」と言う風
潮が沸き立った。 軍部も「帝都に爆撃を受けた」「迎撃
戦力が役に立たなかった」事に衝撃を受けたのであって、
爆撃効果については無視できる程度との認識があった。
この約2年後、軍部も国民も戦略爆撃の本当の恐ろしさ
を、その身をもって味わう事になる。


発艦準備中のB−25B双発爆撃機
先頭機はドーリトル中佐が操縦桿を握る。
同中佐は本作戦の成功を皮切りに、後に
少将に昇進、在英第8空軍司令官となる。

次項