日本爆撃 初期


1944年4月2日、インドのチャクリア基地に初めて
B−29が到着した。 24日には、中国の成都にある
広漢飛行場に進出し、5月初旬には130機もの大量の
B−29が周辺基地に集結する。
6月5日にはバンコクの操車場などを目標に、初めての
爆撃を行い、6月15日にはついにその矛先を日本内地
へと向けた。
ドーリトル空襲から約2年、遂に主役が舞台に登場した。

山口県下関市の北東15kmの小月には、陸軍の飛行第
4戦隊が展開していた。 35機の双発複戦「屠龍」を主力
とする本戦隊はベテランパイロットも多く、昼夜とも有力な
対重爆迎撃部隊として期待されていた。
1944年6月15日、23:31、朝鮮半島南方海上にある
済州島にあるレーダー基地から西部軍司令部に入電があった。
「彼我不明機、東進中」。 さらに「不明機は済州島北50km。」
の一文が続く。
6月16日に日付が変わり24分が経過、遂に空襲警報が発令
される。 日本内地への本格的戦略爆撃の開幕ベルが鳴った。
中国成都を発進し北九州を目指したのは第20航空軍第20
爆撃兵団に属する62機のB−29だった。
ベテランパイロットの搭乗する「屠龍」の迎撃に会い、目標
に投弾出来たのは47機で、戦果は及第点に及ばなかった。


同爆撃で撃墜されたB−29の中から
見つかったフィルムの1コマ。
手前のエンジンが撃墜された同機のもの。

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