日本爆撃 末期
B29による対日戦略爆撃は夜間の無差別爆撃だけでは無い。
1945年4月7日、戦艦大和が東シナ海に沈んだその日が、
日本防空戦闘機隊にとっても運命の日となった。
P51Dマスタング、後に最強のレシプロ戦闘機の異名をとる
この制空戦闘機が、初めてB29に随伴して日本上空にその姿
を現したのである。
以後、B29による昼間精密爆撃がより安全に遂行できるように
なり、各地の工場施設への爆撃が盛んになっていく。
もはやB29撃墜どころか、迎撃戦闘機の生還すら期しがたい状態
に陥り、いよいよ迎撃戦力は低下、B29は容易に爆撃任務をなし
得るようになる。
戦略爆撃機B29と制空戦闘機P51Dのコンビは、対日戦略爆撃
の効果を決定的とした。
昼間の生産施設に対する精密爆撃、夜間の都市部に対する無差別焼
夷弾爆撃、低下する防空戦力、もはや日本は叩かれるだけとなった。
最終的に日本本土に落とされた爆弾量は16万トンあまり。
その内実に14万トン以上がB29による投弾であり、その大半が
都市部に対する爆撃である。
そして8月6日。
世界初、有史以来初めての爆撃が敢行される。
目標は広島。
ポール・W・ティベッツ大佐の操縦するB29特殊改造機「エノラ・ゲイ」
が投下した重さ4トンのガンバレル式核爆弾は、与えられた高度信管の
正確な作動と共に、第2の太陽を発生させ、致命的な放射線をまき散らす。
わずか10秒。 広島市街地は廃墟すら残らなかった。
戦略爆撃の結果。 戦争の結果。
車より手前は全て3月10日の犠牲者。
多くの人の生命が、人生が、可能性が、ここに奪われた。
しかし、この人達は今の我々に「何か」を伝えようとして
いるはずである。
次項
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