その戦果1


航空特攻の戦果は昭和19年10月25日。
第1神風特別攻撃隊・敷島隊の突入に始まる。
と、思われがちだが、実際はどうだろうか?

公式な記録は見た事が無いが、この日より以前に出撃
した部隊は、陸海軍を通じて実はいくつも有る。
陸軍では未確認戦果を報告しており、後に戦果の追認を
行っている。 情報網錯綜の為に確認と報告が遅れたのである。
海軍でも21日に単機でレイテ湾に向かい、未帰還となっ
久納中尉がいる。 同日、オーストラリア艦が航空機の
「操縦ミスによる激突」を報告しているとの資料も有る。
とかく、多くの資料がアメリカに傾倒しているが、相手は
アメリカでは無く「連合軍」だと言う事を忘れてはいけない。
それに、アメリカは徴用輸送船の被害は発表していない。
これがわかれば、多くのパイロットの実際の戦果が明らかに
なると思う。 公表されていないのは本当に残念だ。
また、10月25日にも敷島隊だけでなく、多くの部隊が
出撃し、敷島隊より早く突入している事実をご存じか?
敷島隊が地を蹴って発進した時間、護衛空母サンチー、スワニー
が、いずれも突入されて、甚大な被害を生じている。
10月25日における戦果は司令部で総合され報告されたハズで、
その際に兵学校出身の関大尉がリストの上に来たのではなかろうか?
( 決して彼を非難誹謗している訳ではない事を理解頂きたいし、
 この行についてはあくまで個人的な考えである。)

しかし、両軍における公式記録上の確認戦果が、敷島隊の
戦果だと言うことには異存はあるまい。

25日迄に、幾度も出撃と「テキヲミズ、キトウスル」を
繰り返したプレッシャーに、隊長としてよく耐えたれたものだ。
部下を預かり、絶対死の作戦に幾度も臨むと言うのは、尋常
な人間にできる事では無い。
その一事をもってしても、私なら絶対に耐える事は出来ないと
思う。 本当に辛かったと思う。


フィリピン・マバラカット基地から発進する敷島隊。
装備機には練習隊にあった中古機材の零戦も含まれて
いたと言う。

次項

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