スキップ・ボミング


1943年3月3日、南方方面の要衝ポートモレスビーを攻略すべく
81号作戦に従事していた第三水雷戦隊と輸送艦8隻は、7000名の
陸軍兵士と兵器、物資を積載してニューギニアのフィンシュハーフェン沖に
達していた。 前日には哨戒機の後に爆撃があり、多少の被害が出たのだが
人的被害は少なく、作戦は続行されていた。 上空には陸海軍の戦闘機延べ
200機程が投入される予定であったらしいが、実数は8割程度が投入された
にすぎず、それも作戦全期間でそれだけの数であるから、艦隊上空に常時
待機している数は20〜30機程度でしかなかった。
払暁から続いたジャブのような爆撃の後、同日早朝、遂に本命がやってきた。
約100機の第一波が中高度、低高度、超低高度とバラバラの高度で、同時
多方向から襲いかかってきた。 敵機の半数にも満たない上空直援隊だけで
守りきれる数ではない。 
しかも、だれもが魚雷攻撃と信じた敵機の落とした「爆弾」は、子供のやる
「水切り」のように水面で跳ね、次々と護衛艦、輸送艦の舷側に命中。
高速で退避していく米軍機はアッと言う間に去っていった。 わずか15分
程度の攻撃だったが、船団の被害は甚大だった。 これが、初めて日本軍が
目にしたスキップボミング、日本海軍呼称「反跳爆撃」、陸軍呼称「跳飛爆撃」
である。 同日、午後まで続けられた同様の攻撃によって、輸送艦の全てと
護衛艦の半数が波間に消えた。 陸兵3000人以上と艦船の乗員、さらに
輸送中の全機材が喪失した。 戦わずに、である。
救助活動も手間取り、3日前に出航したラバウルに戻るまで、半年もかかった
兵もいたと言う。
この、米軍呼称「ビスマルク海海戦」に関しては日本側の正式な呼称は無い。
ただ、海戦のあった海峡の名を冠した通称だけは知られている。
「ダンピール海峡の悲劇」と言う。

スキップ・ボミングの方法。
スキップボミングはまずイギリス軍が実験的に使用した。
次いでアメリカ軍が大規模に使用した。 それが前述のダンピール海峡の悲劇
である。 超低空での飛行を行わなければならない為に、これ以降は連合軍
側での使用は無くなっていく。
高度100〜300m、時速300kmくらいから緩降下しながら増速しつつ
高度10〜20m程の超低空に舞い降り、雷撃よりも高い速度で水平飛行しな
がら目標の300m程手前で爆弾を投下するのである。
当然ながら旋回退避する余裕は無く、目標上空を飛び越える事になるのだが、
雷撃の場合よりも遙かに高速な為に生残率はまだ高い。
魚雷に比べて弾速が遙かに速く、また近距離で投下する為に、命中率の上昇
が期待できる。
投下された爆弾は浅い深度を進んでから、海面上へ飛び出てスキップする。
この時、あまりに機速度が速く、高度が低いと、飛び上がった爆弾が機体に
当たってしまう場合があり、実際に実験中の機体が墜落、乗員死亡の事故も
起こっている。
しかしながら、急降下爆撃や雷撃ほどの高い熟練度は必要とされず、低練度
のパイロットでもそこそこの習熟は可能だったと言われる。

アメリカの場合
前述の通り、ビスマルク海海戦に於いて大規模に敢行された以外は、
組織だって大規模に実施された事は無い。 このアクロバティックな攻撃方法
は、やはり危険な攻撃方法とみなされていたのだ。
それでも、スキップボミングほど超低高度ではないものの、ソロモン戦線での
米軍機の低空飛行は凄まじく、残っている写真のB25やA20の低空飛行
シーンは、見るだけでも恐ろしいものがある。
日本軍の熟練パイロットの技量は高かったと言われるが、米軍のパイロットも
負けず劣らずの技量を有していたことに疑いはない。


B25。 四発機より軽快な機動性を生かし、アクロバティックな任務をこなした。


次項

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