航空体当たり攻撃
戦争そして戦闘と言う行為は、人として誰もが恐れる反面、異常な熱狂
と興奮とを生み出す狂気を潜ませている。
1941年、イギリスとの戦いを膠着させてしまったドイツは独ソ不可侵
条約を一方的に破棄、ソ連に侵攻した。 破竹の勢いの進軍は補給線の
伸長と面制圧の希薄さをもたらした。 それでもモスクワまで肉薄した
ドイツ空軍はこの時期、思わぬ敵に出くわす。
今まで素人に毛の生えた程度の技量だったソ連空軍の機体が、必死の
体当たり攻撃を加えてきたのである。
日本軍よりも遙かに早く組織だった必死攻撃をソ連は行ったのである。
「タラーン」と称されるこの攻撃は、多くのソ連軍パイロットの命を
その代価としてドイツ空軍の作戦行動を阻害した。
どの時点で誰が指示したのか詳しい記述のあるものがみつからなかった
のは残念だが、およそスターリンあたりに違いはないだろう。
違ったとしてもそういった体制を敷いてきた責任は免れない。
電撃戦の最先鋒だったドイツ空軍の行動の阻害は、すなわち陸軍の行動も
阻害することになる。 またヒトラーの移り気も様々な形でドイツ軍の
行動を妨げた。 結果として例年より早くに訪れた冬将軍の前に、ドイツ
は敗れ去るのである。
1941年と言えば、日独伊三国同盟を拠り所に日本軍が真珠湾を奇襲
した年である。 日本が最も頼りとしたドイツは、日本が開戦する時には
既に斜陽のかげりが見え始めていたのである。
2機編隊で飛ぶ当時のソ連空軍の配備機Mig3
攻守所を変え、勝敗の行方が見えた1945年3月。
米重爆部隊を迎え撃つドイツ空軍でも組織だった体当たり攻撃が実施
されている。ドイツ空軍で夜間戦闘畑を歩いたヘルマン大佐は、他の
反対を押し切り、空軍総司令官ゲーリングにこの案を了承させた。
「エルベ特別隊」の誕生である。
この時期に至っても尚、ゲーリングの思考は停止していたのであろうか?
もうドイツにとっての終戦が目前に見えた4月7日、米第8航空軍は
重爆と護衛戦闘機合わせて2000機以上と言う途方もない数の航空機を
ドイツに向け放った。 もはや正面切っての戦闘は不可能となったドイツ
空軍にとって、これを止めれる訳はない。
「志願者」によって編成されたエルベ特別隊は快晴のドイツ上空でこれ
を迎え撃ったのである。
ドイツ国歌や熱狂の声を流す電波は米軍機でも傍受できたと言う。
Me109とFw190合わせて189機が出撃。
護衛機の囲みと重爆の弾幕を突破した機体が次々と重爆に激突する。
1時間足らずの戦闘で70%の機体が喪失し、75名のドイツ軍パイロット
が失われた。
これだけの被害に対して、米軍は重爆を8機を失ったと報告している。
一度の戦闘でこれだけの損害を出し、エルベ特別隊は2度と飛び立つ事は
なかった。
エルベ特別隊所属のMe109とそのパイロット
次項
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