Me262 シュワルベ


1942年3月、メッサーシュミット社アウグスブルク工場から引き出された
3発の飛行機があった。 テストパイロットの操縦で浮揚した機体の両翼下の
2機のジェットエンジンは高度が上がるか上がらないかの内に停止してしまい
残る機首の小型レシプロエンジンを頼りに、機体は着陸に成功した。
これが後の名機Me262のジェットエンジンによる初飛行の様子である。
ジェットエンジンのみでの初飛行は、更に4ヶ月後の1942年7月となる。

その戦果を見なければ、Me262はかなり紆余曲折のあった機体だ。
純粋なジェットエンジンでの史上初の飛行はHe178が1939年8月に記録
しており、Me262と競争試作となったHe280は1941年4月に既に
初飛行している。 本来なら、He280が制式機として採用されていても
おかしくない。 Me262は良くて「後継機」、悪くすればお蔵入りの運命
となるハズであったが、いくつかの事態が重なりHe280は見送られた。
一般的にはドイツ空軍省や空軍高官の「ハインケル嫌い」が大きい理由と
されているが、テストパイロットらから「He280は実戦配備は到底不可能な
機体である」とのリポートが出されていたとする記述もある。
とにもかくにも、増加試作機まで完成していたライバルHe280の命脈は
ここに断たれてしまったのである。


基本的には従来機と同じ直線翼機のHe280。 エンジンの信頼性も低かった。

国内の総工業力が決まっている以上、航空機を一定数以上は作れない。
1日100機分作る能力があるとして、何機分をMe262に回すかと言う
のも大きな問題である。 ようやく生産の軌道が見えてきた1943年3月、
Me262のような革新的(成功するかどうかまだわからない)ジェット機
に量産優先権を与えて、もし失敗すれば取り返しがつかないばかりか、既存の
レシプロ機の生産に大きなしわ寄せが来る。 との判断から、Me262の
生産は小規模に留まったままだった。

Me262へ襲いかかる次なる試練は、マイン・フューラーのヒトラーである。
バトル・オブ・ブリテンの敗北と、東部戦線でのソ連軍の攻勢、アメリカ
第8空軍のイギリス本土展開による爆撃、当時の戦況は押され気味の
守勢に回っていた。 Me262にとっては高速迎撃機としての本分を
十分に発揮できる機会であったが、攻勢しか考えないヒトラーの目には
高速爆撃機としか映らず、戦闘機としての生産にストップをかけさせられた。
高速性能を第一義として設計され、機銃の翼内装備すらできなかった
Me262に爆弾を装備するには、胴体下に懸吊するしかなかった。
爆弾ラックまで設計していた為に改修自体はすぐに終わったものの
その結果、30mm機関砲は2丁に減り、爆弾ラックの空気抵抗の
おかげで幾分かの速度低下は免れなかった。
また爆弾懸吊時には200km/h近い速度低下があり、重量増加と
相まって、連合軍レシプロ戦闘機に撃墜されるケースも増える事になる。
この型がMe262A2a型で、「シュツルムフォーゲル」の通称がある。


Me262A2a型。 機首下の爆弾ラックが見える。

高速戦闘機として開発され、小規模の生産ラインで、それも爆撃機として
しか生産を許可されず、1944年8月にようやく「爆撃機型20機につき
戦闘機型1機」の生産許可を出したヒトラーが、Me262戦闘機型である
Me262A1aの全面的生産許可を出したのは更に3ヶ月後の11月。
ドイツ敗戦までわずか半年の時であった。


Me262A1a型。 通称「シュワルベ」
A1a、A2a、共に当時のパイロット達には「ジルヴァ(銀)」と呼ばれた。


次項

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