Me262 シュワルベ


ようやく量産に障害の無くなったMe262へ、試練は更に襲いかかる。
1944年も末になるとドイツ上空の制空権は連合軍に移行しつつあり、
機材の輸送の根幹となる鉄道輸送網が守りきれなくなり、爆撃によって
次々と破壊されていく。 これにより工場で完成したMe262が途中で
足止めされ、前線まで届けることができなくなったのである。
日本の航空機生産工場の隣接地に飛行場が少ない為に、牛車で飛行機を
運搬したとのは悲喜こもごもの話しであるが、工場の隣接地に飛行場の
ある場合が多いドイツでも、敵の制空権下での前線への空輸は難しい
事だったのだろうが、Me262を空輸できるほどの腕前パイロットは
この時期には前線にいる、と言う事の方がより大きな理由かも知れないが、
それに関する記述は非常に少ない。


Me262の生産工場メッサーシュミット社アウグスブルク工場のすぐ側に
ある、レッヒフェルト基地。 多くのMe262が写っている偵察写真。
高速を誇ったモスキート偵察機などもMe262就役後は未帰還機が増加した。

1944年4月末、Me262を初めて装備したのは262実験隊と言う
小規模の部隊で、Me262の基幹パイロットの養成と戦術の確立を目的
としていた。 しかし部隊が軌道に乗るか乗らないかの6月初旬には
連合軍上陸部隊がノルマンディー海岸に上陸。 地上部隊を叩くことに
ご執心のヒトラーは、いよいよMe262に期待をかけることになる。
敵の制空権を強行突破して爆弾を投下できる機体は、この時期に至っては
Me262A2aしかなかったのであるから・・・。

この後にも第51爆撃航空団の中でMe262に改編されたシェンク実験隊。
初代262実験隊の隊長の戦死後、隊長が代わり改編されたノボトニー隊。
などが小規模な迎撃を繰り返し、戦術的には脅威となりつつあったMe262
であったが、ここでまたもや試練が襲いかかる。
事実上のドイツのナンバー2、ゲーリングである。
戦闘機隊総監ガランドらの功績でようやく大規模なジェット機部隊を作れる
段に至ったにもかかわらず、ゲーリングはMe262の、それも戦闘機型の
A1aを爆撃航空団に装備させはじめた。
自身が戦闘機乗りであったにもかかわらず、戦闘機部隊を何かと目の敵に
していたゲーリングは、鈍足すぎて攻撃に出れば落とされるだけの爆撃機の
パイロットを、用無しの旧式レシプロ爆撃機から新型のジェット戦闘機に
機種転換させようとしたのだ。 無用の機種のパイロットを有効に活用
しようとした努力は認めるが、もともと400km/hそこそこの速度で
飛ぶ旧型爆撃機のパイロットが、時速800km/hで飛ぶ新型機で飛び
遙かに優勢な敵機を、いきなり撃墜できると思う方がおかしい。
十分に訓練を積めば可能かもしれないが、ドイツには既にそんな余裕は
無かったのである。
結果としてMe262を装備した爆撃航空団の成果は、撃墜数よりも損失
数の方が多い程の状況を呈する事になる。
それでも、第7戦闘航空団などの生粋のMe262戦闘機部隊に対しては、
なかなかMe262は行き渡らなかったという。

1945年2月、当時としては世界最強と思われる中隊が発足した。
第44戦闘団。 中隊長はゲーリングの横槍で戦闘機隊総監を解任された
ガランド中将。 その下にはドイツ空軍でも名だたるパイロットが集まった。
終戦まであと3ヶ月、空軍の人事局は既に統制力を失い、第44戦闘団には
自主的に(勝手に?)やってきた者も多かったと言う。
日本軍なら中尉あたりが指揮を執ってもおかしくない程度の規模の部隊で
隊長が中将、副長が大佐という、「方面軍」規模の者達がゴロゴロしていた。
所属パイロットの多くが騎士鉄十字章以上を授与されていると言う、とんでも
ない部隊である。
この時期になりようやくMe262は少数による多数への迎撃を行えるだけ
の組織とその支援体制が完成しつつあった訳だが、工場と輸送機関の被爆、
あまりにも多い連合軍の戦爆連合(毎回数百を数える)などにより、行動は
末期症状を迎えていた。 またMe262を束縛する者達が、その指揮権を
発揮させれなくなってきたと言う事は、とりもなおさず軍組織ひいては国家
組織の崩壊を意味する。 Me262の実力にかかわらず、ドイツと言う国が
崩壊を始めていたのである。


次項

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