Me163 コメート


1942年7月、決定版Me163Bが完成した。
全備重量はA型が2200kgなのに対し、3885kgにまで増大した。
武装や儀装を施し、戦闘に耐えうる強度を与えた結果ではあったが
これにA型と同じ速度を発揮させるには、さらに強力なエンジンが
必要だった。 HWK109−509Aエンジンは、実に1700kgの
推力を発揮した。
同年4月からの滑空試験は順調であったが、エンジンを付けた頃から
災難は降って沸いてくる事になった。


Me163B、離陸用ドリーと着陸用橇が良く見える。

その最も大きな問題は燃料に関するものだった。
163AではT液とZ液と呼ばれる燃料が使われた。
T液は過酸化水素水であり、Z液は過マンガン酸カルシュウムである。
Z液を触媒としてT液を化学分解させると、加熱水蒸気ガスが発生する。
そのガスの圧力を反動として推進していくのである。
構造が比較的単純であるが、得られる推力はそれほど大きくない。
163BではT液とC液と呼ばれる燃料となる。
T液は同じだが、C液は水化ヒドラジンとメタノール溶液のミックス。
これは両方が化学反応すると莫大な高温高圧のガスを発生させる。
そのガスを反動推進のパワーとするのである。
163Bでいきなり推力が2倍以上になるのは、エンジン自体の構造が
全く違うからである。
このT液、Z液、C液の中で、安全な液体など一つもない。
特に共通して使われているT液の危険性は想像を絶する。
過酸化水素水は化学式で書けばH2O2で、H2O(水)と似ている。
しかしこの液体は非常に反応が激しく、付着すれば人体でも「溶解」
するのである。 それがパイロットの真横、体から10cmと離れて
いない場所のアルミ製タンクの中に、大量に搭載されているのだ。
そしてさらに大量のT液がパイロットの後方に搭載されている。
操縦席にただ座るだけでも危険である。
その為にパイロットはもちろんの事、地上の燃料クルーにも防護服の
着用が義務付けられていたが、気休め程度にしかならなかったと言う。


パイロット後方のタンクにT液を注入する地上員。

エンジンに関して、リピッシュ博士とワルター社はウマが合わず、博士は
ワルター社の製品管理について公式文書でこう述べている。
図面と実際の製品の状態は一致しておらず、ブレードは破損して正常に
取り付けがなされていない。 そして部品の梱包はお粗末である。
設計図通りに作っていないばかりか、破損した部品が間違った位置に
取り付けられている。 と、さんざんのけなし様であるが、事実とすれば
とんでもない話である。

さまざまな試験や、パイロットの訓練に使用された163Bに対して
実験部隊EK16や後の実戦部隊JG400の搭乗員達はベルタの愛称
をつけた。 さすがはMe109E型をエミール、G型をグスタフと呼ぶだけ
のお国柄である。
あまり知られていないようだが、1942年10月、このベルタで一人の
女性が重傷を負う事故を起こした。
ハンナ・ライチュその人である。 そして彼女は翌年1943年末にも
部隊配備の始まったベルタに搭乗する為に、空軍基地を訪れたという。
良くも悪くも、行動的である。

1942年いっぱいと43年前半はエンジン試験や改良、搭乗員の訓練
戦術の発展、機体の改良に忙殺されていた。
1942年末には機体の重量バランスの変化から、垂直尾翼をV字翼面の
ラダベーターにする案も出たが、最終的には重量を増加させる追加装備を
排除する方向で決定した。
高速で脱出する場合に備えて、一気に機速を減速させるドラッグシュート
の装備は見送られた。 速過ぎる速度に対応する為のスピードブレーキも
見送られた。 そして、燃料タンクの装甲も見送られた。

1943年6月に入って、ベルタは初めて自力での離陸を行えるまでに
成長してきた。 Me163B・V21が猛烈な加速を開始。
ところが地面の窪みにバウンドした途端に、ドリーが機体下面に食い込む
事故が発生したが無事に着陸できた。 軍高官を招いた式典であっただけ
に、ベルタにとっても危ない事故であった。
翌7月には政府関係者まで招いての飛行展示会があり、その目玉の1つと
してベルタもその速度を披露した。


猛烈な加速を開始するMe163B。 一度だけ離陸シーンの映像を
見た記憶がありますが、その印象は正しく「地対空ミサイル」です。



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