秋 水 (シュウスイ)


昭和36年、日本飛行機の工場敷地改修中に、埋没している秋水が発見された。
一見鉄屑にしか見えないそれは、航空自衛隊岐阜基地に譲渡され雨避け天蓋
付きで露天展示されていた。 さらにその機体は三菱重工へと譲渡され、現在は
きれいにレストアされ、一般にも公開されている。


綺麗です。 以前近くまで行ったのですが、渋滞のあまり見逃しました。

昭和19年7月14日、連合軍が制海権を握る大西洋とインド洋を87日かけて
航海し、ようやくシンガポールに入港した潜水艦があった。 巌谷技術中佐は
技術交換協定に基づいてドイツから入手したMe262とMe163の資料を
ようやく当時の日本軍の支配地域まで持ち帰ったのだ。
急いで持ち帰ろうと潜水艦を降り、内地行きの飛行機を求めた中佐であったが、
しかし輸送機に乗って日本に向かえたのは更に3日後だった。
その潜水艦は多くの資料と見本を満載したまま、本土への回航中に米潜の雷撃
に会い、米空母ワスプ撃沈で勇名を馳せた艦長木梨中佐と共に沈んだ。
秋水の資料が日本に届いたのは、まさに間一髪。 そして多くの犠牲の上での
奇跡に近い経緯があった。
東京に到着した中佐の持ち帰った資料を空技廠で検討した結果、Me262と
Me163の両方を同時開発する事に決した。 この会議の席上、既にMe163
に対する運用上の問題は山積していたのだが・・・。

空技廠は陸軍との打ち合わせも手配し、その結果、機体は海軍、エンジンは陸
軍が主導し、共通の装備機とする計画がなされたが、どちらのパートについて
も開発の実務を任されたのは三菱重工であった。
Me163に忠実な設計を希望する海軍と、再設計を主張する陸軍の、妥協の
産物の「不必要な共同作業」ではないかと思うのだが・・・。
零戦、雷電、烈風、で多忙を極めた三菱は一時は秋水を固辞したが、相手は軍
である。 頼むと言われて断れる状況でないのは明らかだろう。
こうしてまったく未知の分野のロケット戦闘機を、わずか4ヶ月足らずで試作
する強行スケジュールは決定した。
頼りになるのは巌谷中佐の持ち帰った20枚程度の機体設計説明図。 三面図
写真が1枚。 主翼の断面図1枚。 燃料の製造と取り扱い説明書。 ロケット
エンジンの原理と構造図。 他数点のみ。
しかも致命的なことに、何の寸法も数字も書かれていなかった。
現在ではラジコンの設計もできない程度の資料かと想像する。
忠実な設計はおろか再設計すらできず、こんな形ですと言われただけで新規に
設計しだすのと同じではなかろうか?
ちなみに、当時でも飛行機の設計図は、機体だけでも何百枚。 大型機になると
何千枚と言っても過言ではない程の、膨大な量が必要となる。





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