秋 水
それでも8月中には要員の手配から適性検査までが行われ、年末までに滑空
訓練が繰り返されて行く。
横須賀航空隊に発足したこの部隊は、10月には茨城の百里原基地に移動し
横空百里原派遣隊と呼ばれた。 派遣隊の呼び名は、隊長の提案と部下の
発案によって「秋水隊」と呼称されるようになった。
この隊名が、機体の制式名称として使用される事となる。
12月末には基地の置かれた百里原に木製羽布張りの機体が届いた。
滑空訓練専用で、動力などはまだ付いていないグライダーであるが、この時点
で外形は完成していると言っても良い。
翌昭和20年1月初頭には、動力を装着していない滑空用の実機が到着した。
前者を軽滑空機(秋草:アキグサ)と言い、後者を重滑空機と称する。
このあたりの配備順序は、はからずも先輩Me163と似ている。
ならんでいる秋草。 翼端に簡単な橇が着いている。
三菱側の並大抵ではない苦労のお陰で、機体はこうも短期間に出来上がった。
オリジナルのMe163との外見上の大きな違いは、機首の発電用プロペラが
無くなった事。 生産性の向上を狙ってのものだろうが、いざ実戦になれば
機内バッテリーの電気だけが頼りになる事だろう。
あとは風防が一体整形でなくなり、日本機特有の小分けになっている事。
被弾時の修理に有利などと言うが、ロケット機の被弾はあまり考えたくない。
実際は、一体整形のプレキシガラスを作るだけの基礎技術が日本に無かった
だけの事である。 現在とはえらい違いだと思う。
それ以外は、少なくとも外見はソックリである。
比して難航したのはエンジンである。
ほとんど無いに等しいエンジン関係資料を頼りに、8月中に大枠は出来上がっ
て来たが、危険な薬液燃料を吸い上げるポンプの試作でつまずいた。
10月頃から難しくなってきた製作作業だったが、12月頃にはようやく噴射
実験が試行され、短時間だが日本初の液体ロケットエンジンの炎が輝いた。
それでも、燃料ポンプが一応の安定性を示すようになったのは、翌昭和20年
1月になってからの事である。
また、作動中の高温による溶解などもあり、エンジン自体にもまだまだ改修
しなければならない問題が山積していた。
その上、12月中にはB29による名古屋空襲と東南海地震のダブルパンチで
疎開を余儀なくされた。 しかも疎開先では陸海軍の面子争いに巻き込まれる
オマケ付きである。
機体がほぼ出来上がっていた12月に、エンジンはまだこういう状況だった。
それでも、見たことも無いロケットエンジンを、「こんな感じでよろしく。」と言った
程度の資料を基に作り上げたと考えれば、驚くべき速さである。
最終的にはドイツでも不足した薬液燃料だが、日本では生産もネックだった。
消費量が多く、一度の出撃の数分で1200リットルを必要とされ、そして非常に
危険な薬液である高濃度過酸化水素水の生産は皆無だった。
それを月産2500tにもっていこうと言うのだから、日本の化学工業界はまさに
総動員と言う事になるだろう。
ガソリン燃料に頼らず、国内で生産できる燃料であることから、「長期戦に耐え
うる」とすら考えていた軍人もいたらしい。 夢である。
電解法による高濃度過酸化水素水の生産には白金と言う希少金属が必要で
あった。 月産2500tの達成のためには1600kgの白金が必要となる。
日本国にはそれほどの膨大な白金のストックは無かった為に、民間からの
供出に頼らざるおえなかった。
最新鋭の未知の戦闘機を飛ばすために、最終的には国民のタンスを当てに
すると言うのは、いくら何でもお寒い計画である。
次項
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