橘 花 (キッカ)


動力の付いている航空機は、エンジンと機体から成り立っている。
両者のうち、開発と生産により手間がかかるのはエンジンである。
機体のみが完成しエンジンが取り付けられないと言った状況は
日本にもドイツにも見られた状況だ。
開発にも生産にも手間がかかるだけに、エンジンは機体に先行して
開発に着手されるのが通例である。
ドイツでもまずジェットエンジンありきで、その後に機体が開発
されている。 これはイギリスでも変わりない。
実は日本でも橘花の開発に先立つ数年前には、ジェットエンジンの
種は撒かれていたのである。 同時期に開発された秋水との大きな
違いがそこにあると言えよう。

海外のジェットエンジン開発の動きを日本に持ち込んだのは、昭和
10年から昭和13年までパリに駐在していた種子島中佐だった。
日本にはまだまだこの情報を生かすだけの素地は無かったものの、
帰国し空技廠発動機部勤務となった中佐は、ほどなく新築された
試作エンジンや実験エンジンを担当する工場の工場長となる。
本来の仕事の合間を縫って、ジェットエンジンの実験をその工場で
始めた。 机上に置ける程度のミニサイズのさまざまな部品を削り
出し、組み上げ、日本で最初のガスタービンエンジンは回った。
推力と言えるような力は無かったものの、たしかに日本初のジェット
エンジンには違いなかった。

昭和17年に入ってジェット推進を専門とする研究二科が空技廠発動
機部に新設された。 部下には中佐よりもジェットの造詣に深い者も
含まれていた。
研究二科の初仕事はガスタービンを応用した、過給器の試作だった。
この過給機を圧縮機にしてジェットエンジンに発展させようという
部員のアイデアが採用され、日本発のジェットエンジン「TR」が
完成した。(「タービン・ロケット」の略。)
予定の回転数や出力は記録できなかったものの、初の試作エンジンで
あった事は意義深い。 構造的には遠心式のジェットエンジンであり
ドイツのハインケル系やイギリスのホイットル系に近い。
3基作られた試作エンジンでの運転試験が全て終わったのは昭和19年
の夏で、結論は「まだまだ先は長い」と言うものだった。
それでも、改良型で増加試作型の「TR10」が軍民共同で70基発注
された。 ドイツやイギリスでのジェット機の開発状況に刺激された
軍令部の焦りが招いた無茶な発注で、技術畑の人の多くが「TR10」
には疑いを抱いていた。
もちろん初めての経験の未知のエンジンを、いきなり多数を揃えろと
言われておいそれと出来る訳も無く、特に民の方の試作は進まなかった。

同じ昭和19年夏、昇進していた種子島大佐は衝撃を受ける。
巌谷技術中佐によってドイツから持ち帰られたジェット・ロケット関係
資料の中に、Me262のエンジンBMW003の縮尺図やJumo004
の記録があったのだ。
遠心式ジェットエンジンを試作し続けてきた大佐だが、軸流式の図を見た
時、既に次期ジェットエンジンは軸流式にすべきと結論付けた。
今までの自分の研究のほとんどを放棄するのであるから、半端な覚悟では
できない決心である。
陸海軍協定で海軍がジェットエンジンを、陸軍がロケットエンジンを、それ
ぞれ担当すると決められた。 それに従い、ジェット・ロケットのエンジン
のコードを「ネ」とする事が決定した。
「TR10」は「ネ10」と呼称される事となる。
その「ネ10」は量産を見送られ「ネ10改」が計画された。「ネ10改」以降
は軸流式に再設計されている。
「ネ10」は「ネ10改」以外にも「ネ12」や大型の「ネ30」へと進化した。
いずれもあまりモノにならず、「ネ12」より少し大きめの「ネ20」の完成に
関係者の期待は集まった。
これまでの技術蓄積とドイツからの資料と電報でのやり取りが加わり、
「ネ20」は思いのほか良い出来栄えとなった。
昭和20年3月26日、日本初の実用軸流式ジェットエンジンに火が入った。



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