西部戦線1


1939年9月1日、ドイツ軍はその空軍を前面に押し立てて
ポーランドへの侵攻を開始した。
ポーランド空軍は旧式P11戦闘機で迎撃に飛び上がった。
また、意外な事に地上攻撃機はそれなりの機体が配備され、
数は絶対的に足りないものの侵攻阻止爆撃などを展開。
弱小とは言え、一般的に思われているような「情けなさ」では
なかったと言えるかも知れない。
地上では馬に乗った騎兵がドイツの装甲部隊を迎え撃っていた。


PZL・P11戦闘機。 見てのように複葉よりは幾分近代的。
しかし速度差は歴然で、双発機にも追いつけなかったと言う。


P37双発爆撃機。 ポーランド屈指の近代的爆撃機。
少数が生産されたが、大半の機体は祖国を脱出した。

この現状を見る限り、ドイツ空軍は鎧袖一触の進撃を行った
ハズである。 一般的にも何となく数日で弱小ポーランドは
崩壊した印象がある。 まさに電撃戦の面目躍如であるかの
ごとき印象であるが、実際にはポーランド崩壊までに18日
かかっている。 ポーランド戦で使用された空地一体の戦術
が後に電撃戦と呼ばれる戦術であって、ポーランド自体は
短期間で崩壊したが、一般的イメージ程の「電撃」ではない。

ドイツ西部にはオランダ、ベルギー、そしてフランスが鎮座
している。 その先には数年前にテコ入れしたスペインが、
さらに先にはポルトガルがある。
ポーランド侵攻以来約半年、フランス軍はイギリス軍の協力を
得て待ち構えてはいたものの、積極的な攻勢には出なかった。
まだ第一次大戦の戦術を踏襲し、マジノ線という要塞防衛線
に頼った防御戦闘を想定していたのだ。
「先に動いたほうが、やられる。」
第一次大戦の塹壕戦の教訓が大いに生かされていた。
この期間は「まやかし戦争」「フォニーウォー」と呼ばれる。

大国が積極的に動かなかった事はドイツに対し、ポーランドに
侵攻していた部隊の転用を完了させる時間を与えてしまった。
さらに、ポーランド侵攻時にはフランス・イギリスが戦端を開く
かもと言う警戒から、ドイツは総兵力の3分の2を西部戦線に
張り付けていなければならなかった。
ポーランド戦でドイツは、いわば片手を縛って足枷まで付けて
戦ったようなものである。
それが今度は、全力でやってくるのだ。

マジノ要塞線はフランスの国家予算を莫大に圧迫する程の大
要塞であり、突破するにも犠牲は大きくなると予想された。
ところがマジノ線はフランス東部でドイツに対して建設された
もので、北の隣国ベルギーにはまったく指向していなかった。
邪魔なものなら迂回する。 ヒトラーの考えは戦術的には納得
いくものだが、戦略的には無謀であり、国際的には容認できる
ものではなかった。




次項

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