ポート・ダーウィン空襲



太平洋戦争の期間を通じて、日本軍陸上爆撃機が積極的な攻勢爆撃に
出た事例はあまり多くない。 ほとんどが接近する米艦隊などに対する
防御的な出撃であり、それはまた本来の運用思想に沿ったものでは
あったが・・・。

例外の1つがオーストラリア本土北方の要衝ポート・ダーウィンに
対する爆撃作戦である。 ラバウル方面に対する後方基地としての
ポート・ダーウィンの存在価値は非常に大きく、日本軍にとっては
なんとしても叩きたい目標であった。
比較的ラバウルに近いポート・モレスビーに対し、オーストラリア
本土に位置するポート・ダーウィンに対しては陸上兵力の上陸は無論
艦隊攻撃すら難しかった。 
開戦直後に実施された機動部隊の攻撃だけではとうてい足りず、勢い
反復攻撃の主力は航空兵力となる。

海軍の一式陸攻+零戦の戦爆連合に対し、オーストラリア空軍所属の
P−40や、イギリスからの援軍スピットファイアが迎撃を展開。
往復2000kmを飛翔し、防弾皆無の一式陸攻を守った零戦の
敢闘ぶりは、両軍の認めるところとなった。
しかし、その事実を認めたくない勢力もあった。 日本陸軍である。
海軍の活躍に刺激された陸軍は、どうしてもポート・ダーウィン爆撃
を、陸軍単独で成功させたかった。
新鋭爆撃機百式重爆「呑龍」を攻撃の主力とし、「隼」を護衛に付け
戦爆連合を編成。 昭和18年6月20日を攻撃決行日とした。


百式重爆「呑龍」、陸軍の面子で計画された爆撃行ではあったが、同機
にとっては数少ない本格的な爆撃行となった。

陸軍機にとって慣れない海上の飛行。
それも、敵国の前庭を往復1700kmも飛び空戦するのだ。
「隼」の最大行動半径ギリギリの作戦行動の為に、増槽はもちろん
臨時に胴体内にまで燃料タンクを追加し、エンジンの燃料調節器にまで
手を加えた機体が用意されていた。
百式にとっても初の本格的な爆撃作戦であり、日本機の中での話だが
重火力と重防弾を試す機会でもあった。
18機の百式に直援の「隼」22機が付く。
別働の低空奇襲担当の九九双軽9機と、百式司偵2機も出撃。
本隊の百式の出撃約3時間後、ポート・ダーウィンの正門メルビル島と
バサースト島が見え始めたその時、レーダー情報を元に同島上空で待ち
構えていたスピットが踊りかかる。




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