公会堂#2


1945年3月8日、マリアナの第21爆撃軍で作戦実施が発表された。
日本にあって最も忌み嫌われたB−29の大集団で、東京にとどめを刺す
爆撃作戦を敢行するこの作戦は、B−29搭乗員にとっても衝撃的な内容
を含んでいた。
爆撃高度2000m、尾部銃以外の武装の撤去。
さしものB−29といえど、日本軍迎撃機に対して圧倒的に優位なのは
高々度飛行能力と重火力であることは両軍の誰もが知っていた。
その優位を全て捨てるというのだ。
搭乗員の全員がイヤな顔をしたに違いない。 しかし司令官のルメイは
断固として作戦を決行する決意だった。

B−29に搭載されるのは1機平均6.6tもの焼夷弾。
対日戦専用と言っても過言ではないE46収束焼夷弾は、1弾が38発の
M69焼夷弾に分解し落下する。 地上を狙う爆弾の散弾。 今で言うクラ
スター爆弾だ。 ただし昨今のクラスター爆弾は主に対人や軽車両、施設
を狙う小型「爆弾」であるのに対し、M69は都市を焼き払う為の「焼夷弾」。
325機用意されたB−29には、合計2000tものM69が搭載された。
実に38万発の焼夷弾である。


マリアナ諸島テニアン島に展開するB29の群れ。
B−29もM69も、対日戦にのみ投入された兵器だった。

昭和20年3月9日夕刻、第73・第313・第314の各爆撃団のB29が
次々とマリアナの基地群から離陸を開始した。
先導の機体にはより大型の焼夷弾が搭載されており、これらの機体がパス
ファインダーとして大型焼夷弾で基準点をマーキングすることになる。
日本軍の夜間戦闘体制は脆弱であり、当日の天候から推測するに迎撃は
微弱であろうと結論付けられていた。 また航空機の侵入を早期に察知する
レーダー装備も弱く、高射砲等の対空火器も脅威とは言えない、とされた。
武装を外し、高度の優位も捨てた。
機体と搭乗員を守るのは、残された防弾装備と夜の暗闇だけである。
ルメイは、成果の上がらない昼間高々度精密爆撃を捨て、夜間低高度無差別
焼夷弾爆撃へと舵を取ったのだ。

日本では毎秒20〜30mの極めて強い季節風が吹いていた。
レーダーのアンテナは酷く揺れ、用をなさなくなっている状態だった。
午後10時過ぎ房総半島勝浦のレーダーサイトに少数の機影が映り、即時
警戒警報が出され。 各迎撃隊も警戒配備甲を発令。 即時発進体制。
深夜0時、房総半島南端で識別不明機の爆音が聴取される。

昭和20年3月10日午前0時7分、B−29の先導機が東京の日本橋を
めがけてマーキング用の大型焼夷弾を爆弾倉から投下した。
同8分、地上着弾。 爆発的な炎上を開始した。

通常爆撃としては日本史上に残る惨禍であり、世界的に見てもドレスデンに
次ぐ膨大な人的被害を出す事になる、東京大空襲の幕が切って落とされた。



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