水平社博物館-フィールドワーク解説A


○ 阪本清一郎宅跡
 清一郎の代になって独立した住居です。奥に母屋があり手前に離れ座敷、さらに手前に 蔵、母屋の南側に高い煙突の膠工場がありました。
 また、この家の蔵から発見された水平社博物館所蔵の膨大な史料からは、阪本清一郎の 様々な側面が読み取ることができます。阪本については、これまで「膠工場の経営者の息 子で水平社内では大蔵省的な存在であり、水平社運動ではいつも陰から運動を操っていた」 などと見られてきました。しかし、阪本史料によれば内部対立によって分裂の危機に見舞 われた全水4回大会、第7回大会、第10回大会において常に分裂を回避しようと阪本が 動いていましたし、実質的な指導者・組織者であったといえるのです。
 また、これまでの水平社運動の評価をめぐっては、アナーキズム派とボルシェビズム派 の評価しかなく、阪本や米田などの社会民主主義者はほとんど評価の土台にものぼりませ んでした。しかし、実際には彼らの存在がなければ全水は第16回大会まで続かなかった でしょう。当時、阪本はアナ・ボル対立に際しては「ウルトラ癇虫」と一蹴して「兄弟的 団結」の重要性を訴え続けました。
 また、写真フィルム用薄ゼラチンの開発に成功しフィルムの国産化の一翼を担いました。 つまり、写真用フィルムは当時、ガラス乾板のネガでありましたが、ヨーロッパでセルロ イド状のロール式フィルムが開発され、日本は最初、英国領であった中国の青島、上海な どに居留していたイギリス、フランス、ドイツ人を介して輸入していました。ところが、 日本の朝鮮半島・中国大陸への侵略政策の中で貿易が途絶し、フィルムの輸入が困難とな りました。日本にとっては、侵略する土地の事前調査活動の必要性があったのと戦勝場面 を撮影して、戦意発揚、国威発揚をはかるためには、ガラス乾板よりも破損しにくく持ち 運びに便利なセルロイド状のロール式フィルムがどうしても必要でした。そこで、現富士 写真フィルムの前身、大日本セルロイド株式会社などが開発を急ぎましたが、すべて失敗 に終わるのです。こうした中、阪本が経営していた信州南佐久郡川上村の「阪本工業所川 上工場」で1937年(昭和12)阪本自身がその開発に成功しました。しかし、193 9年(昭和14)、同じ川上村にあった東京に本社を置く「株式会社日本化学工業所川上工 場」に阪本の工場と技術が売却されました。さらに、富士写真フィルムが投資して提携し 同社の経営に参加し、1941年(昭和16)11月、富士写真フィルムに吸収合併し、 同社の川上工場として新発足したのです。また阪本は、自ら発行した膠・ゼラチン関係の 著書も多数遺しています。
  つまり、阪本は水平社運動においては優れた組織者、運動のけん引者であり、また、有 能な化学者であるとともに著作家でもあったという多面的な側面をもっていたのです。