水平社博物館-フィールドワーク解説B


○ 燕神社
 この場所は、「岩崎村」の名前の由来である「岩の突き出たところ」であり、ここにそも そも集落があったと伝えられていることから、岩崎村の創始の場所と考えられます。では、 なぜ岩崎村の人々がこの場所に住居を築いたのかということですが、「岩の崎」の直下は満 願寺川・本馬川・中方川・曽我川の4本の河川が合流する場所であり、御所市に降った雨 水の東半分のすべての雨水が集まる構造になっています。近代以前に弊牛馬の解体を担い、 膠を生産していた岩崎村の人々にとって、この豊富な水量こそが産業を支えてくれる「命 の水」であったのです。
 燕神社は1921年(大10)8月28日に建立されました。阪本清一郎が遺した『回 想録』によれば、「村に何ら記念するものがない。遊園地もない。何か記念するものをつく りたい。遊び場が欲しい。」などと記されています。その記念とは、1921年(大正10) 8月28日という燕神社建立の日付から「解放令」のことを指していることがわかります。 1871(明4)年8月28日に出された、いわゆる「解放令」50周年を記念して燕神 社が建立されたことが伺えるのです。そして、阪本『回想録』によれば、祠は阪本の妻、 数枝のふるさと、大阪府西成郡西中島村(現、飛鳥)で区長をしていた兄の中井利助の計 らいで廃社となった村の氏神を貰い受け、燕会会員の鶴谷藤吉らが馬力で運んできたとい います。
 燕会の青年たちは毎夜この燕神社に集合していろいろなことを話し合ったようです。時 には学習の成果を披露するため発表会を開いては村人を集めたといいます。
 燕会の人びとは、この燕神社の広場を「建議の庭」と呼んでいました。